とある信条と生き方について

   

 

なんとなく、火の発見は人類にとっていつだったのかを調べたら
「50万年から25万年前」とのこと

https://ja.wikipedia.org/wiki/発明の年表

 

 

人類の歴史は、発明の歴史・・・

 

ふーむ

 

人類は確かに頑張ってきたが

もっと向こうまでさかのぼると、原始的な生物にまで感謝する必要がある。

 

感謝は良い、先祖に対してできる方が良い。

 

ただし・・・

なんだか「自分たち」と呼ぶのを人類に限定することに、個人的に抵抗を感じてきている・・・

 

どこかで、人類として、という主体をきちんと腑に落ちる形で定めないと・・・
我々、というのがどこまでも生命全て、いや、存在全てに及んでしまう。

そして、我々を「人類」としたところには
存在をただの「くじ」と呼んだところから、勝手な切り取りを行うことになる。

つまり、単に超ランダムな神の仕業として、主観の存在を考えると、存在者は何であれ良いということとなるが
もし仮に、この「くじ」において「人類」を選択し、そのうえで
不幸な我々は無くそうだの、みんなにとって良いことを増やそうだのと言う時には

あたかも、Aの村人がBの村人たちを「我々以外」とみなし、時には自分たちの利益のために殺しさえするように
「我々」を人類と規定するところには、実はそこには、殺され得る外の存在が必ず現れてしまう。

そうして殺され得る外の存在を認めるということはすなわち
結局は、幸福な家庭に生まれた者が、そうでないものを見下し、「外の存在」として扱うのとまったく同様のこととなる。

 

ということは、そもそも線引きをすること自体を辞めた方が良いのか?
それとも、やはり線引きは必要で、どこに線引きをするか? が重要なのか?

 

この問いに答えを出すためには
実際にどう線引きが可能か、不可能か、という実践的な思考実験からの帰納よりも、
何のために、という根本的な目的のあぶり出しが重要かもしれない。

 

何のために、存在そのものを「くじ」というランダム要素のある存在としてみるのか?
主観存在のランダム性を前提と考えることで、何を得たいのか?

 

自由なのではないか?

俺がそもそも欲しているのは、自由なのではないか?
根本的な自由

俺の自分自身の存在を含むこの世の全てが創られているという現状に対して
その中で、いかに最大の自由を勝ち取るか
それが俺の高校生の頃からの一貫したテーマではないのか?

 

十代の半ばには、劣等感やら何やらと、そもそも自分の肉体やら環境やらに対して不満だらけであった。
だからこそ、創造主に対しては反抗的な気持ちが強く
押し付けられた自己を、最大のえこひいきの対象として生きよ、という
押しつけがましさに耐えきれず、悩んでいたものだった。

この創造主に対しての自由が欲しいからこそ
自由の存在する場所、少なくとも自由を感じやすい方法を探していた。

 

あれから約20年の時が過ぎ、
俺は人生は楽しいもので、しかも自分の存在はとてもラッキーなものであるという認識も強く持つことができている。
つまり、創造主に反抗的になる理由はもはや無い。

 

かといって、ではもう当時の自由を欲する気持ちは失ったのかといえば、そうでもない。

むしろ、あらゆる試みを通じて、やはり自分の自由が最大化されるような信条を貫こうとしている。
肉体的な自由もそうであるし、精神的な自由の方に、むしろ重きが置かれていると思う。

 

精神的な自由の理想とは何か?

これはきっと、創造主と同じだけの力を手に入れることにあると思う。
しかし、これはもちろん不可能。

想像の中でさえ、沸き起こる情動から逃れることはできず、根本的には「意味合い」は、自分でつけるよりも与えられる。
その組み合わせを知って応用ができるようになることはできても
美しい風景を見て、それによって食欲が沸くというようなことはない。

厳密には洗脳の科学的手法は既に、根源的な認識から根源的な欲求や恐怖への組み合わせの再編を可能にしているみたいだが
これについては時間的なコストが大きいのと、その向こうに期待できるはずの俺の欲する「自由」をそれほど感じられないので、あまり意味はない。

とにかく、基本的には既に頂いた組み合わせをどううまく運用するかで
主人公が幸せを感じるのかを調整するのが、この主観の成せる自由の範囲である。

 

正直に言えば、やはり幸せは素晴らしく、不幸は嫌だ。
これらの与えられた条件に対しては、もう従うほかは無いと妄信している。
その時点で、俺は、創造主に対して反抗的になりたいわけでもなんでもない。

既に、ありがたいと思うことができている。

 

であればなぜ
なぜ、自分自身の「我々」と呼ぶ存在者の線引きなどに今さら、あるいはまだこだわっているのか?
与えて頂いた時代の常識で既にそれは、同一の国家の民、や地域の民、あるいは人類、などとくくりが決められているのだから
その中でしっくりくるものを選べばよいだけではないのか?

一番しっくりくるものは、人間たち、つまり人類だと思う。

ただし、そこで抜け落ちる他の多くの存在者を外の存在=「俺たち」というくくりで利害を共有し得ない相手と断ずるところには
やはり選民思想的な、頂いた優位性にあぐらをかいて生きることになるのではないか?としか思えない。

「頂いた優位性にあぐらをかいてもいいじゃないか」

それもそうだが
俺は、他のすべての存在者が、自分と何も変わらないという感覚を強く持っている。

それは、つまるところ存在を確認できるのは、現在のみであるという真実の上で
その連続性にさえ自由を有さないところの自分にとって
次の瞬間に別な存在者であることを保証できる存在でもないのにも関わらず、
今ある全てが当たり前に次の瞬間にも保持され、その優位性の上のあぐらをかきつづけられると妄信すること

この態度には、どうしてもなれない。

これは恐怖からなのか?
それとも、感謝からなのか?

 

おそらくそのどちらでもない。
単に、真摯でありたいという、存在を自分自身にとって真面目に受け止めるならば
それくらい当たり前だろう、というような意識から来ている気がする。

 

俺の知るところ、この時代の多くの人間たちの意識は
まずは自分と自分に近しい人達の肉体的、精神的な幸せが最優先であり
その前提には、まず自分という存在についての盲目的な信仰がある。

「唯一の確かなことは、記憶の呼び出しも含めて、今この瞬間に主観的に存在する認識でしかない」

こういった事実については、誰も気にもしていない。

 

この創造された世の中が、とても小さな時間的単位で、物理的な様相を法則からランダムに変化し続けている前提だったとしても、それを誰も証明ができない。
逆に、この世界のランダム性が存在しないことも、誰も証明ができない。

なぜならば、我々が共通して認識している感覚を保持する対象となる現在については、時間的な連続性を持った一定の法則が適用されている。
(これも全てに渡って適用されている必要はないにも関わらず、少なくともされているように見せられ続けていることは、いわゆる化学が証明し続けている。)

 

そうか、この「世界のランダム性」を反証できない存在としての自己として
いかに自己同一性を、アイデンティティを確立するか、というのが
俺にずっとある課題なのだな。

真実の中で、解っていることの中で、本質的な生き方をしたい、という、思春期めいた思考の中で
今も俺は生き方を探っているんだな。。。

 

 

話題を戻すと・・・
だからどう生きればいいのか?

目的は何か?

今、あらためて気づいたこの目的、
「世界のランダム性を反証できない存在としての自己」としてのアイデンティティの確立で良いのか?

きっと、これは間違いがないことだと思われる。

 

これを前提に生きている限り、少なくとも理論的な最大の自由は獲得できている気がする。

 

そのうえで、何をすればではこの、アイデンティティは確立できるんだい?

いや、アイデンティティの確立は信条でしかないだろう。

これを前提に、そうして、どう考え、何を成そうとして生きるのか、それはまた、全く別の問題だろう。

 

あいわかった、確かに全てはランダムに変わり続けるかもしれない。
次の瞬間に自分はまったく違う存在かもしれない。
それは犬かもしれないし、植物かもしれないし、はたまた、石や、窒素の原子やクォークかもしれない。
いや、ひょっとするとまったく無機質だの有機質だのが関係のない、二次元や四次元の物理法則の何らかの小さな、あるいは大きなファクターかもしれない。
そもそも物理的な存在と異なる、何らかの別な・・・

そう、ランダム性を前提に信条を立てているのであれば、自分という存在は、無限だ。
まさに無いに等しく、全てに等しい。
ほとんど仏教でいう「空」そのもの。

ほとんどじゃない、まさに「空」とはこのことだ(笑)

1点、自己を定義するところに、その関係性から意味合いがなされ、その意味の体系に世界が創造される。
つまりある1点が定められない限り、何も存在しないが、どこにでも点を定めれば、全てが存在し得る。
つまり、無いに等しく、すべてに等しい。空(笑)

 

いや、ここにきて空の概念に自分なりのアプローチで辿り着くというのも興味深いが
とはいえ、やはり現実を死ぬまでの時間の運用=人生とみる時には
計画性をもった目的意識が必要で、空を説いてばかりもいられない。

 

空の世に対する俺自身の信条は解った。

 

では次に、何のために生きるのか?

これこそは、やはり、「何か」を定義しなければ始まらない。
俺のおかげで恩恵を受ける存在は何であるべきなのか?

 

ここまで一度大きく風呂敷を広げた上では
確かに、周りの限られた人たちだけに幸せが広がるのを限定する人たちが多いこともなんだかとてもわかる気がする。

彼らは、俺のような面倒なアプローチを経ずに
自分と頂いた環境すべに感謝し、身近な人たちについても、全く疑いなく、彼らこそは大切にされるべき対象として扱い続けているのだろうな。

 

ただ、俺としては、せっかく真実だと勝手に信じている「ランダム性の信者」なのだから
ランダムな存在としてのこのくじ引きについて
不幸に思えるものを無くし、幸せに思えるものを増やすことに費やしたいと思う。

そうしてここに、なんだか改めてすっきりしたが

原子や石、植物でも動物でもなく、利害の解りやすい=不幸と幸福が俺にも解りやすい、同種の人間たちを特に差別し、人類に対して大いにえこひいきをしてあげたいと思う。

 

 

あとは、方法論と効率の議論に続けばいい。

 

 






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