旧記事:自分の思うことをそのまま認め、ありのままの自分で楽しく生きる方法

   

 

 

 

当記事は、大幅に書き換えましたので、まだの場合、コチラをお読みくださいませ

 

 

 


 

 

 

 

Before:自分が思う内容1つ1つに不安がある
↓↓
After: 自分が思う内容1つ1つは、全部そのままで問題ない

 

どのように、上のような変化を得ることができたのか、についてこの度はお話したいと思います。

 

前回の記事では、私自身が精神的に悩んでいたところから、いかに脱却できたか、克服できたかについてのお話でした。)

今回の記事でも、私の勝手な考え方をご紹介するのみですが、「普段から不安や悩みが多い」、「自信が無くありのままの自分を愛せない」、「等身大の自分で生きたいができていない」、などの経験をしていて、自分が思う内容1つ1つにいつも不安を抱えて悩み苦しんでいる方へ向けてお役に立ちたいと思い書いています。また、そういった方が身近にいらっしゃる方にとっても意味のある文章ではないかと思っています。

 

 

自分が思う内容に不安を抱かないようになる方法・・・

 

結論から言うと、「ぜんぶ製作側の都合だろこんなもん!」と開き直ることです。

 

 

 

ん!? 製作側!?

 

 

何のこと!?

 

 

と、急にチンプンカンプンなことを言っているようですが、

 

 

まず、まとめて言ってしまうと

 

人生自体を誰かが製作したものだという解釈に徹して、そのあらゆる問題について「製作側の都合」だという解釈に徹して

 

・これ(人生)は自分が作ったわけではないので根本的には自分のせいじゃない!

・だからこそ自分が思うことも全てこのままで問題ない!

 

というように普段から思うことで不安を無くす、という方法です。

 

 

 

「自由意志をあえて放棄する」という言い方もできるかもしれません。

 

 

 

突然、人生について「製作側」だとか、「自由意志の放棄」だとか、ちょっとピンと来ない表現かもしれませんが

 

少しお付き合い頂けますと嬉しいです。

 

 

 

 

自分の思うことがそのままでは不安、という人にとっても、まず、確実なこととして

 

そもそも、「自分が生きている」という前提がありますよね?

 

 

全部、なにもかも、とりあえず自分の人生があることが前提、ですよね?

 

 

 

 

ものすごい当たり前のことを言っているようですが

 

根本的には人生というものは

 

自分と環境

 

この2つをある時セットで与えられた上で、

自分が勝手にあーだのこーだの思ったり言ったり行ったりしながら、死ぬまでを過ごす、そのようなものです。

 

 

 

たんぱくに表現し過ぎかもしれませんが

 

「人生なんて自分と環境を与えられて、死ぬまでを過ごすもの」

こんなようなものでしょう、と笑

 

 

そして、じゃあその「自分と環境」を自分自身が創ったから始まったのかといえばそうでもなく

 

「気付いたらあった」程度のものでしょう。

 

 

両親がいて、社会があって、歴史があって、地球が、宇宙がー・・・ と色々あったのだと思います。

きっとあったのでしょう。

 

 

でも、それらも含めて、「生まれてみたらそういうことになっていた」、というのがぶっちゃけの本音じゃないでしょうか?

 

 

 

そりゃあ、昨日の食事や、今の生活環境については責任を感じるところが少しはあるとしても、

 

大きなところでいうと、自分の人生もこの世界も、「こういうような設定になっていた」から今日もあるわけです。

 

 

 

 

 

私たちは人生を通じて、色々なことに対処して、とかく「自分の責任」「自分の問題」として考えながら行動して、時に悩んだりするわけですが

 

そもそもの大きなこの人生の舞台である世界や、メインの主役としての登場人物である自分などは、「初期設定によるところが大きい」わけです。

 

 

 

このあたり、あえて問題にされませんが、大いに大切なことだと私は思うのですが、どうでしょうか?

 

 

この辺は、もしあなたも私の考え方がしっくりくるようであれば、是非、採用してみてください。

 

 

初期設定が違ってたら全く違ってるはずの自分の人生について、

「ちょっとみんな、背負い込み過ぎなんじゃない?」

 

というのが私の現在の本音です。

 

 

初期設定を決めたのは自分じゃないのだから、それは製作側の都合、製作側の問題だったわけで、自分は、その大部分の99%を決められたうえで、残りの1%みたいなものを、文字通り一生懸命生きるわけです。

 

 

これは、忘れられがちですが、本当に重要なことだと思います。

 

 

だって、自分がイヌに生まれていたら、イヌの人生だったわけですよ?

 

自分が西暦5000年の世界に生まれていたら、もっともっと科学の進化した世界に生まれていたわけですよ?

 

昔のどっかの国の奴隷として生まれていたら、たぶん一生、その時代に奴隷として生きたわけですよ?

 

今現在の地球に生まれたのだとしたって、どこかの飢餓地帯に生まれていたのであれば、毎日毎日、食べ物に困っていた生活を今送っていたはずなわけですよ。

 

 

もっといえば、生まれなければ何もないわけで

 

今、自分が当たり前だと思っている物理的な事象や知識だって、全部、違う世界だったなら、それが当たり前になっていたわけですよ?

 

 

 

そんな風に考えてみたら、人生なんて99%どころじゃない、ほとんど100%、製作側の都合であったとも言えてしまうようなものなんですよ

 

 

 

 

・「いやいや、そんな仮の話を持ってきてもどうしようもないだろう」

 

・「自分が現にこうして生きているのはこの自分だし、この世界だ。架空の可能性の話に意味はない」

 

 

と、そういう風に言われる向きもあるかと思いますが

 

 

 

しかし「それにしたって」、です。

 

 

それにしたって、じゃあ自分に今日何が起こるか、についてはどうでしょうか?

 

 

天災や事故、住んでいるところに次に起きる事件、遠い国のテロ、今日これから自分の身近に起こる出来事も

 

この現実に展開し続けているリアルタイムの世界についても、

これって、冷静に考えてみて、言葉を変えれば「製作側の都合」という感じのことではないでしょうか?

 

 

リアルタイムの世界の展開も、製作側の都合です。

 

 

少なくとも、自分が細かく決めているわけではない。

勝手に起こっていることが圧倒的です。

 

 

自分ができることといえば

 

せいぜい、目の前に起こっていることについて、主人公として与えてもらった肉体で、できる範囲の行動をしたりと、その程度です。

 

 

 

しかも、その自分のできる行動だって、考えられる範囲のことしかできないわけで

 

「考えられること」というのも、生まれや環境によって、教育やメディアからの情報によって影響を受けていることがたくさんあるわけで、本当に自分が「自由に自分の意志で設定した」、とどこまでいうことができるのか、疑問を挟む余地は大有りです。

 

 

 

例えば、親や社会が熱心な宗教家であった場合に、自分がその宗教と無縁にいられる人などいないでしょう。

 

ちなみに突然ですが、この人間という種は、地球のこの時代、あと少しすると2100年くらいには、イスラム教という宗教の信者が、一番、多数派になるらしいです。

 

世界の宗教別人口は現在キリスト教徒が最大勢力だが、2070年にはイスラム教徒とキリスト教徒がほぼ同数になり、2100年になるとイスラム教徒が最大勢力になるとの予測

イスラム教徒、2100年には最大勢力 世界の宗教人口予測  :日本経済新聞

 

 

こういう宗教に熱心な人達の一人に自分が生まれていたとしたら、自分だけが「そんなの私は信じない」と、言えるでしょうか?

 

彼らの大多数が親と同じように、身近な人達と同じように入信するように、自分もしていたと考えるのが普通でしょう。

 

 

 

 

日本に生まれた我々も、熱心な宗教家は少ないかもしれませんが、親や学校、会社やTV番組で言われることによって

どれほど価値観に影響を受けていることでしょうか?

 

 

そういった影響下にある自分の「考え」が、いったいどのくらい、「自分の自由意志」によるものでしょうか?

 

 

 

 

私からすると、「自由意志」というのも一種の錯覚だと思っています。

 

 

どういうことかというと

そもそも何かを考えている、意識している、という状態を細かく要素に分けていくと

 

最後に何があるか?

 

 

「ひらめき」、とか「インスピレーション」とか呼ばれるようなものだと思います。

 

こういうものは、自分で0から創るというよりは「与えられる」ようなものではないでしょうか?

 

 

 

 

このインスピレーションの連続の中に、主観的にはなんとなく、「自由意志」があるような気がして

「自分には自由がある」、というような気分の中で生きている。

 

実際は、それだけのことではないでしょうか?

 

 

 

私は何も悲観的なことを言っているのではありません。

 

論理的に、客観的に考えると、こういう解釈も成り立つよね、という程度のことです。

 

 

 

 

ただし、こういう風な1つの考え方によって、精神を病んで苦しんでいた私が今ではとても幸せに毎日を過ごせるようになった、と思っています。

 

 

 

 

「人生なんて、ある時もらった肉体と環境のセットを、なんとなく自由があるような気分の中で死ぬまで過ごす映画みたいなもんだろ」とも思えるわけで

 

自由な操作が面白い「ゲーム」ですらない、見るだけである「映画」である、と。

 

「責任なんてない。見てるだけ。」

 

 

これって、全てを背負い込んで、いつも自分が何かを思うことにいちいち責任を感じて不安になっている人にとっては、とても救われる考え方だと思うのですが、どうでしょうか?

 

 

 

本当に悲観的なことを言っているわけではないのです。

 

むしろ人生とはそういうものとして認識することも可能で、それがあなたにとっても素敵かもしれませんよ、という程度の話です。

 

 

 

 

 

 

そもそも自由が実際に論理的にあろうがなかろうが

 

私たちがよく口にする「夢中になる」という言葉。

 

楽しいと「夢中になる」ことができる、とても素敵なことですよね?

で、この夢中になっている状態は、「フロー状態」と表現されたりします。

 

 

フロー (心理学)

 

フロー (英: Flow) とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態とも呼ばれる。心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱され、その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

フロー (心理学)とは – Weblio辞書

 

 

これなんて、まさしくそのフロー(流れ)に乗るだけであって、夢の中にいるかのように流れるだけという意味で、そこに自由があることなんて問題にはなっていないわけです。

 

むしろ「無我」、「忘我」だそうです。

 

 

しかし、当の本人がじゃあ奴隷みたいに自由がなくて楽しくない、というのではなくて、むしろ真逆で、そこに本当の自分がいて、本当の自由を体験しているかのような主観状態だというわけです。

 

 

こういう素晴らしい「夢中状態」みたいなのを人生を通じていつも普段から日常を通じて体験しながら死ぬまでを過ごせることが素敵だな、というのが私の考えです。

 

そうして、自分自身では、そんなような人生を今、生きれていると思っています。

 

 

 

だからこそ、毎日が楽しく、幸せで、いちいち自分が何を思おうが、それがダメかとか、良いかとか、正解かとか間違っているかとかなんか気にしないでいられるわけです。

 

Before:自分が思う内容1つ1つに不安がある
↓↓
After: 自分が思う内容1つ1つは、全部そのままで問題ない

 

上のように明確な変化が起きたのも、納得して頂けるのではないでしょうか?

 

 

自分が何を思おうが、不安なんて、理屈上、あるわけないのです。

 

だってそんなものは製作側の都合で作られた世界の中で、製作側の都合で作られた自分が、製作側の都合で何かを思わされているに過ぎないのです。

 

 

 

仮に不安が芽生えたとしても、それを自分が不安に思ってしまったのも、自分が思わされたという製作側の都合だし

不安に思わずに、軽く楽しくふわーっとやりたいことをやりたいようにやって生きて死ぬのも、製作側の都合というわけです。

 

 

 

 

「はい自由意志なんてありません、あなたの自由は錯覚です。不安だの文句だの言ってないで、製作側の都合ってことにして、流れに任せてテキトーに生きましょう!責任もないですよ~笑」

 

私はこういうことをここまで書いてきているのですが、抵抗なくすーっと理解して頂いて「あーいい考え方だね」と心が軽くなる方と、そうでない方がいらっしゃいます。

 

 

上のメッセージをそのまま文面通り受け取って頂いて、心が軽く不安が無くなる感覚の方には、是非、そのまま採用して頂きたいものです。

 

 

 

 

ただ一方で、

 

「いやいや、そんなこといわれても私には自由意志がある。今もこの文章を途中で読み終えるかどうか、自分で選んでいる」という感覚が強くある方からすると、抵抗の強い話です。

 

 

「自由意志が錯覚だだの、無いだのと言われたところで、自分はそれを体験している」、と。

 

 

客観的に見て、論理的に考えて自由意志があろうがなかろうが、人生を体験している自分自身としては、今この瞬間にも、この文章に対して「もう続きを読まない」という選択肢をいつでも選ぶことができますし、実際にその選ぶ権利を自分が常に持っているような気分になっているものです。

 

 

つまり、客観的にはどうあれ、「主観的には自由意志はいつも存在している」と言うこともできます。

 

 

 

フロー状態の時でさえ、自分の主観としては、「映画」というより自由度の高い「ゲーム」に近いでしょう。

 

そういう方に対しても是非、あえてお伝えしたい話なのです。

 

 

 

普段、特別、「製作者側の都合だこんなもの!」とわざわざ考えていなければ、

 

放っておけば、私たちはみな、自分の気持ちとしては、自分の主観として自由意志で常に生きているのが普通です。

 

 

 

だからこそ、「自分はこのままで大丈夫か?」や「そもそも私がこういう風に思うことって大丈夫なのかな?」など、

根本的な不安をいつも抱えたりできるのです。

 

 

 

放っておくと自由意志で生きているのだと思い込んでいる自分は

 

放っておくと、自分のせいで目の前のすべてがあって、今の生活があって、自分のせいで次の瞬間もすべて決まっていく、という風に世界を見がちです。

というか、これが当たり前でしょう。

 

 

 

ただし、自分の自由意志がすべてを背負っていると思っていると

 

成功体験を続けてきた人は良いかもしれませんが、

 

現状維持をしようとし続けて、それにさえ失敗を続けてきたような方には、

「ダメな自分が作ってきたダメな人生を、今日もダメな自分が生きなきゃならない・・・今日もまた大丈夫か?」

 

というような、ものすごく重圧のある大変なゲームになっていたりするのです。

 

 

 

そこまで酷い状況じゃなくても

 

常にチャレンジを求め、経験と新しい知恵を効率よく獲得し続け、成長し続ける人として自分は、とても良い感じにこれまで生きている!、と言える人はどのくらいいるでしょうか?

 

 

むしろ、義務教育+αでなんとか「無難に」頑張ってきた自分が、獲得してきた安心安全な環境を、つまり現状を維持することが重要で

そのメンテナンスに一生を費やし

 

死ぬまでに余計な挑戦などせずに済む、いわば「事なきを得る」ことがゴールになっているケースも少なくないことでしょう。

 

 

そういう自分として生きている人は、間違ってます、と言いたいわけではありません。

 

ただし、常に挑戦と新しい知恵を求めた生き方をしながら

常に変わる環境の中でも安心と安全を確保し続ける生き方をできていると、

 

もっともっと自分への信頼感も安定します。

 

 

「今自分のいる会社が、業界が大丈夫だから、自分は大丈夫」というような、環境依存の自信ではなくなるわけですから。

 

 

 

少し話がそれましたが

 

自信があろうがなかろうが

 

一般に、みな「自分の自由意志で生きている」と思って生きているのが実情です。

 

 

私が言いたいのは

「それ、背負い込み過ぎじゃないですか?たまには放棄して楽に楽しく生きませんか?」

ということです。

 

 

 

周囲を警戒しながら

今日も自分の自由意志で、プレッシャーに押しつぶされそうになりながら、それでも最高だと思える判断をくだしながら、勇んで前へ進んで行く。

 

素晴らしいと思いますし、カッコいいです。

 

でも、もっと気楽に、楽しんだって良いと思うのです。

 

 

冷静に考えてみて

 

そもそも製作者側の都合のことが多すぎるんですよ?

 

 

なにも、背負い込み過ぎるだけが生き方じゃないはずです。

 

 

 

 

「製作者の都合じゃんこんなもの全部!!」と、時には開き直って、

あえて自由意志を否定して、

あえて流れに身を任せて、

あえて自分の責任を放棄してみると、不安無く、前に進めることって、実はけっこうあるのではないでしょうか?、という提案です。

 

 

 

自分の思うことにいちいち不安を抱く人は、そもそも自分で責任を背負い込み過ぎなだけかもしれません。

 

仮に自分の思うことが間違っていたって、実際には問題のないことも多いわけです。

「間違ってしまって起きる不幸」より、「間違ってしまうかもしれない不安におびえる不幸」を勝手に経験している感じかもしれません。

 

 

 

「不安になる」ということは、答えをまだ知らない事柄について取り組んでいるということ

 

既に経験していて答えも知っていれば、そもそも悩んでいないのですから。

 

 

じゃあどんどん不安の対象を無くすためにも、どんどん経験してしまえばよいわけですが

 

それを阻害するのが、プレッシャーだったりするわけです。

 

 

行動をして成功した経験が少ないから自信がない。

自信がないから新しい行動もしない。

 

という悪循環。

 

 

これを断つには、とにかく経験を増やしてしまえばいいわけですから

そのためにはたくさんの行動が必要。

 

 

とにかく、挑戦・行動を効率よくたくさんやるための方法の1つとして

人生ぜんぶについて、製作者側のせいにして、あえて自由意志を放棄して、流れに任せてあえてテキトーにやる!

 

 

こういう風に考えて、えいやっと他人行儀に自分に行動させてしまうことです。

 

 

これが少なくとも、思うこと1つ1つに不安を覚えていた私が、そこから楽しく生きられるように変わっていけた「救いとなる考え方」だったのは間違いありません。

 

 

 

あなたも採用してみてください。

 

 

例えば今、あなたにとって、

自分の成長や、もっと楽しい人生のためには「やるべきだが、不安があってできないこと」とは何でしょうか?

 

 

友人を作ることでしょうか?

新しい事業を始めることでしょうか?

世界旅行へ出かけることでしょうか?

恋人を作ることでしょうか?

起業でしょうか?

 

 

それとももっと身近な

 

外出することそのものだったり

誰かとまともに会話をすることだったり

 

色んな立場で、様々な挑戦が、その人その人の自分にとってあるはずです。

 

 

そのあなたにとっての今日本当はしたい挑戦を

 

あなたの自由意志ではなく

 

 

 

誰か別な人が決めてくれるとしたら、どうですか?

知恵もばんばん授けてくれて

 

恐ろしくなって逃げかえる時も、「いまそれ逃げろ!」と指示をしてくれます。

 

 

そんな誰かが自分にはついていて

 

そいつが何もかも、結局はうまいことやってくれる、そう信じることができていると

 

とっても人生は楽で、楽しくなります。

 

 

なにせ、恐れなくなんでも挑戦がしやすくなるのですから。

 

 

私が上で言っているそのうまくやってくれる誰かというのが、製作者ということです。

 

私は特定の宗教の信奉者ではないので神などの言葉はあえて使いません。

 

 

今、世界があって、自分の人生があって

誰かが作ったんでしょ、と。

 

じゃあ、その製作者になんか意味があったんでしょ?と。

 

 

わざわざ作ったんだから、なんかこれ面白くなるんでしょうね?

 

というような他人行儀、映画を見ている感覚なのです。

 

 

 

これを常に意識して

大船にのったつもりで勝手にいたとしても

 

結局、船出した後のいくつもの苦労を、なんだかんだ楽しみながらやっているのは自分です。

 

もう、そこに自由意志なんかないんだ!と嘆くような暇もないでしょう。

 

むしろ、ゲームを楽しんでいる状態になっていると思います。

 

 

なので、不安なんかが原因で止まってしまってつまらなくなったゲームなら

 

映画っていうことにして

 

次の展開がどうなるのかわからなくなるようにあえてするような気持ちで

 

 

テキトーにノリとインスピレーションで行動してみてしまえば

 

気付くとフロー状態で、

気付くと自由意志で楽しんでいるわけです。

 

 

 

だから自由意志の放棄、というのも一時的な話で

 

より自由になるために、がんじがらめに自分をしてしまっていた自由を捨てて

ノリとインスピに理屈なく任せて行動しよう

 

それって中長期的に、とっても自分にとって素敵な物語を作ってくれることでしょう。

 

 

 

最初の一歩は、

とにかく出してしまうのが良い。

 

 

そのための言い訳を作りましょう。

 

いや、なんとなくそういうインスピが製作者からもたらされたから、

関係者に連絡のメールを送ってしまった

 

 

そんなことを誰かに説明するのは難しくても

 

自分が「これは製作者のせいだ、俺のせいじゃない」とどこかで思えているのは強いものです。

 

 

毎日毎日が、次の展開が待ち遠しい物語に変わります。

 

 

 

 

 

 

とにもかくにも

 

何であれ、自分が楽しんでいる感覚が最大化されるような思い方、考え方を普段から採用すればよいと思うのです。

 

 

 

 

同じことを繰り返しますが

 

 

なので、「製作側の都合だろ!」と私がいうのは、文句ではなく、自分の未来や希望を奪う話でもなく

 

製作側の都合だっていう解釈がいつも成り立っちゃうのだし、

 

そんな自由意志を決め込んで全てを背負いこんで、

 「Aが良いか、Bが良いか・・・」

 「CやDを選択しなかった自分は大丈夫だろうか・・・」

なんてつまらないことを考え込んで不安になって毎日をもんもんと過ごしているよりも

 

 

なんでもかんでも製作側のせいにしちゃって、軽く楽しく映画を見ているような感覚で、楽しく生きてやりましょう!と。

 

こういう考え方で気軽に四六時中生きたって良いじゃないか!と言いたいわけです。

 

 

 

 

 

私は個人的に交友関係のある人達に、うらやましくなるくらい楽観的だったり、自分の思いを実現していくすごい人達、人生を楽しんでいる人達もたくさんいるのですが、そういう彼、彼女らは、何も信仰があったり私のようにいちいち上のような思考を経ていなくても、どこかで絶対的な運を信じているようなものを感じることが多いです。

 

 

何か悪いことが起こったように見えても、

 

「〇〇という意味があるから、こういうことになったんだと思う」

 

というような「自分に都合の良い」勝手な解釈をして、前へ進んでいく傾向があります。

 

 

勝手に「良い意味でこういうことが起きたのだろう!」と確信したりするわけです。

 

 

つまり、もし人生や世界の製作側に対して

・「悪意に満ちた設定をしているはず!」

・「BADエンドしかあり得ない最悪な物語を作ってるに違いない!」

 

と、悪い解釈をしているのであれば、そんな都合の良い解釈にはならず

 

何か悪く見えることが起こる度に、「またやられた!」と、おびえるだけの人生になっていると思うのです。

 

 

自分のことを「運が良い」だのと思っている人というのは

勝手に「製作側が善意ですべて物事を起こしてくれているのだろう」、と思っているようなものです。

 

 

起こる物事が、「良い方向に向かっているはず」、と勝手に思っているのです。

 

 

 

「製作側は素敵なものを作って見せてくれているんだろう」と勝手に確信して気軽に生きている私からすると

 

わざわざ悪く解釈している人達のなんと多いことだろう、もったいない! とよく思います。

 

 

 

 

人生なんてそもそも、自分が作り出したものでもなくて、今日起こることだって、ほとんどが運みたいなものです。

 

自分が操作できるように思える範囲のことでさえ、限られているのです。

 

 

これは、めちゃくちゃやりたいようにやって、その次に起こる展開を勝手に良いことだろうと楽観視して、楽しんでいくしかない! というのが今の私の考え方で、人生の楽しみ方です。

 

 

ノリで、軽く、インスピレーションで行動し続ける。

 

いちいち、思うこと1つ1つに不安を覚えて、びくびくしながら生きていた頃とは全く話が違うわけです。

 

 

根本的な違いは、そもそも自分の責任放棄ができるようになることです。

 

 

Before:自分が思う内容1つ1つに不安がある(どうしよう・・・どうしよう・・・)
↓↓
After: 自分が思う内容1つ1つは、全部そのままで問題ない(製作側が善意でいい感じに決めてくれてるもんどうせ!)

 

 

 

こんなもの、そもそも製作側が勝手に作りたいから作った作品なんだ、こんなもの、じゃあわざわざ最悪なことを起こすために作ったわけではなさそうだし、どれここはひとつ、どれほど面白い物語なのか、見てやろうじゃないか

 

そういう気分で、軽く楽しく、思いつきで行動しながら、今日もずっと生きているわけです。

 

 

 

何度も同じ話を繰り返していますが

 

ここまで読んでくださっているあなたにとっては、共感のできる話でしょうか?

 

 

 

 

こういう状態で本当に生きれるようになると

毎日が楽しくて仕方なくなるわけです。

 

何がおきてもいい、という感覚。

 

自分で勝手に、製作側の絶対的な善意を信じて、テキトーに良いと感じる方へ行動を繰り返してるだけです。

 

 

 

 

 

逆にいうと、悪い結末については認めない状態が続きます

 

「最悪!」と一瞬、思ってしまうようなことが起こっても

自分がそう勝手に思ってしまっても

 

「これは最悪な結末だ」、ということをどこか頭のすみっこでは認めないでおく

 

 

「失敗は成功のもと!」、「塞翁(さいおう)が馬」、という言葉がありますが、こういうのを信じて、何か悪いことが起こったとしても

「ほーこの悪く見えることによって、どんな良いことが起こるんだい!?」として、次の良いことを待つ。

 

 

何日も何か月も、時には何十年も、いつまでも製作側の善意を信じ続けるのがポイント。

 

時には待ち続け、時には探し続ける。

そうすると、意外と、良く見えることが多くなるのです。

 

「あ、これはあの時のあの最悪に思えたあのおかげで今、この素敵なことにつながったんだな!」と気付けるようになっていきます。

 

 

良いことがたくさん起こっているように見えてくればこっちのもの。

人生のイージーモードへ突入です。

易しく簡単になっていきます。

 

 

 

今、不安の多い日々を送っている人、自分が何を思うのかを不安に思う人は、今はDifficultモード。

 

今は、難易度が高い人生を送っているのです。

 

 

Easyモードの人が、製作側の善意を信じて、自分の幸運を確信していて

「あーあの時の最悪に見えたことのおかげで、今日のこの素晴らしい出来事が起こったのだ!」と喜んでいる時に

 

 

Difficultモードの人は、製作側のせいにもできず、かといって自分の運も信じず、不安の多い人達は単に全てを背負い込んで

「たまにはこれくらい良いことが起こってくれないとやってられないわ・・・」と、愚痴り気味に受け取るだけ。

 

 

これでは人生は難しい!クソゲーです。面白くない映画です。

 

 

そもそも「悪いことが良いことを長期的に引き起こす」、という解釈で物事を見ようして初めて見えることはたくさんあります。

 

 

 

何が起こっても、それがもっと良い幸運を生むものだと、勝手に信じて、その解釈を無理やりにでもするクセを付けることができれば、イージーモードへ切り替えられるのです。

 

 

 

怒っちゃってもいいんです、悲しくなっちゃってもいいんです。

 

落ち込んだり、精神を病んでしまってもいいんです。

 

 

ただし、頭のどこかでは常に、こう思っておけると違います。

「これは、製作側が、私の人生をもっと面白くするために用意した設定さ」と。

 

 

不安の多い人は、難易度が難しいところに今、人生があるだけ。

 

 

その今の経験のおかげで、人間の心がどういうものかをたくさん知ることができて

人の心の弱い時、どういうことを思ってしまうのかも、経験を通じて知っている分、弱っている人のことも解ってあげられる人間にもどんどんなっていっている。

 

だからこそ、心も豊かになっていっていて、未来にとても良い出来事がたくさん、増え続けている(という解釈も可能な)わけです。

 

 

 

何が起ころうが、自分が何を思ってしまおうが、これは製作側の決めた設定。

 

製作側の都合。

 

 

製作側はわざわざこんな世界と自分の肉体を用意して、今日もこうやって見せてくれているわけです。

 

「わざわざ主人公として自分を君臨させておいて、その世界で面白いことが起こらないなんてことは、逆にちょっとおかしいだろ!」というような感覚が出てくれば、もうこっちのものです。

 

 

私はそんな感覚になってからは、

 

恥をかこうが、ちょっと嫌なことが起ころうが、簡単にはヘコたれなくなりました。

仮にその場ではヘコたれても、またすぐ次に面白そうなことを始めるような楽天家になっていきました。

 

 

素敵なはずの製作側のご都合なんだから、人生は楽しくならないとおかしい!

 

という感覚。

 

 

もし、あなたも私にとって良かったこの考え方に、共感頂ける部分があれば、是非、試してみて頂きたい。

 

そうして、普段から実践してみて頂きたいです。

 

 

 

 

 

 

もし今、誰かすごい人や力が、自分の肉体と精神を操作してくれて

 

勝手にすごいことをどんどん自動でしてくれるなら

 

 

あなたはどんなことを、自分の肉体にさせたいでしょうか?

 

 

 

まずはそれを明確にして、

 

あとは、機会をうかがって、他人行儀に自分へそのための行動を始めさせてみることをおすすめします。

 

 

製作者側の都合じゃんこんなもの!どうせ良くなるさ と思いながら。

 

 

 

自分が本当に生きたいようにノリで生きられるようになっていれば

 

自分が次に思う内容に不安があるだのないだの、気にしていない状態になっていることでしょう。

 

 

 

 

 

ーーーーーーーーーーーーー

ここまでお読み下さりありがとうございました。

 

 

これを書いています私としては

 

「肉体と環境をセットで与えられただけ」の自分という意味で、

別に、これを読んでくださっているあなたのことも、自分と変わらないと考えています。

 

むしろ、誰一人、自分と変わらないと思っています。

 

だって、ある時その人の肉体と環境を与えられていたら、自分はその人として生きていただけなのだから。

 

 

そう考えると、すべての人達は自分です。

 

 

自分が今、どんな自分であろうが無条件で愛してあげたい、という自己愛

それに加えて、どんな自分に生まれていたとしても無条件で愛してあげたい、という思いがあります。

 

つまり、自分が生まれていたかもしれないすべてパターンの自分を幸せにしたい、と。

 

 

これをするためには、「自他の自尊心を高める人を量産」することが良いのだろうと思って私は生きています。

 

 

だからこそ、精神的な問題を今は抱えているかもしれないあなたにも、まずは自分を最大限に愛すのは当然として、いづれは周りの人達、そうしてもっと関係のない赤の他人に対してまで、どんどん自尊心を高めてあげられるような存在になっていって頂けたら嬉しいなあと、勝手に思っています。

 

—–

前の記事「離人症が治った私の体験談。病院や薬と無縁で克服した治し方。より根本的な心の問題とは?」と今回の当記事の2つを読んでくださった方からメールを頂きまして、さらに私自身、考えを深めることができました。

その方とのやり取りをベースにした記事「あらゆる悩みが解決する!?自殺の肯定~最悪の場合を受け入れる覚悟~」を書きましたので、こちらもご一読頂ければ幸いです。

 

 

また、私の文章を読んで「こんな風に思いました」など感想やご意見などコチラから頂けますととても励みになります。お互い匿名のままという条件のもとで意見交換などもさせて頂ければ嬉しい限りです。






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