他人は脇役。自分が主役。

   

 

 

他人は脇役。自分は主人公。だから自分の人生は面白くなるはず。

 

この感覚は非常に大切だと思っている。

 

 

例えば兄弟や、よく一緒に遊ぶ近所の子供と

 

子供の頃から人は、比較して

 

お兄ちゃん(お姉ちゃん)は良いな、とか、

近所の何とか君のおうちは良いな、とか

 

憧れと、むしろ嫉妬を覚えながら生きていくことも多い。

 

 

 

ただし、身近じゃないので、遠くの町の人のことを思うことは少ないし

 

まして、遠くの国

 

 

あるいは、時代の違う誰かの身と比べて

 

 

あぁ、自分はラッキーだな

 

などと、良い部分を見つけられることも少ないのが実情ではないかと思う。

 

 

学校にしても

 

そういった周りとの比較の中で

 

 

自分がどれほど優秀か

 

あるいは、大したことない奴かというのを感じながら生きていく。

 

 

 

 

なので、言い方は良くないかもしれないが

 

劣等な人達が多いところで育ったら

優越感を持ちやすいし

 

 

優良な人達が多ければ、

劣等感を持ちやすい

 

 

ということも、真かもしれない。

 

 

 

 

ただし、

 

いかに、他者のノイズを気にしないで済むか、これは本当に重要な問題だと思う。

 

 

 

 

「子供は親を選べない」

とよくいうが

 

 

子供が選べないのは

国も、時代も、全て、何もかもだ。

 

 

自分が誰に、どういう環境において生まれるか

 

それ自体が、くじ引きのようなものでしかない。

 

 

 

そして、その主役として生まれた自分が

ずーっと死ぬまで変わらない。

 

 

なので本当は

 

それぞれに、生まれた自分と環境により

まったく意味合いの違うゲームが始まっている。

 

 

ところが

学校での成績や、身体的能力、見た目など

 

偶然生まれた環境において周りの人達が気にしている基準で

 

自分自身も、自分を評価しがち。

 

 

 

成績が悪いなら、頭が悪いんだと思ってしまったり

モテなければ、魅力のない人間なんだと思ったり。

 

 

ただ、どんなハンデを背負って生まれようが

自分にとっての自分は常に一定であり

 

 

それが主人公としての世界が1つあるだけ。

 

 

これを、分別が付くようになってから

あらためてしっかりと見つめなおすことって

 

とても大切なことだと思う。

 

 

 

個人的に、複数の国にまたがって生きているのでとてもよくわかるが

あるAという国でカッコいい人やカッコいいことが

他のBやCでは大したことが無かったり、むしろ真逆に扱われたりすることなどもたくさんある。

 

 

 

日本は特に

常識をみんなで大切にして

お互いに共有し合って尊重する文化の強い国なので

 

 

特に、日本だけで育って生きている日本人は

日本の常識を絶対視しがちで

 

その中で、勝手に自分が劣位だとか、思い込むことも多い傾向にあるように思う。

 

 

これがアメリカやヨーロッパなど、もっと多文化の混在する国に生まれていた場合

それほど、気にしないで済むことも多いかもしれない。

 

 

 

などといって

他の国と比較しようがしまいが

 

 

 

自分が誰で、どこにどういう親のもとに、どういう時代に生まれたのか、という

根本的な生まれの設定は

 

自分にとっては一生、変わらない。

 

 

 

なので、そんな自分というヤツが

 

こういう時代にとにかくこういう環境、こういう設定で生まれた、ということを

 

 

プラスに解釈して生きるのが、もっとも幸せになる上で効率がよい。

 

 

 

誰をうらやましく思っても

自分は自分、変わらない。

 

生まれた環境も親も国も

言ってしまえば、過去の境遇さえも、変えようのない事実だ。

 

 

だからこそ大切にしたいのは

 

自分がそういう設定で生まれたことで、自分が認識できる「自分が主役の世界が広がっている」ということ。

 

 

 

この自分が主人公の世界、というのは1つしかない。

 

そこで、間違っちゃいけないと思うのは

道路を横切るおじさんでもおばさんでもなく

 

自分がその世界の主人公である、ということ。

 

 

育った環境によって、常識がひどく自分を縛ることはあると思う。

 

 

けれど、

 

自分は他の誰でもない

大衆ではない。

 

奇妙だが、

なんと自分が認識できる唯一な形で、「自分」として存在しているのだ。

 

 

それを、赤の他人や、道行く誰か

兄弟や親族、近所の誰か

 

などと一緒に考えること自体、ナンセンス。

 

そもそも論理的でさえない。

 

 

自分は、とにかくこの自分で

こういう過去で、こういう現実をひっさげて生きている、他人じゃない唯一の存在、主役なのだ。

 

 

この存在様式が特別な者を

 

他の多くの人達の中で偏差値で測ろうとすること自体、何かおかしなことをやっている。

 

 

 

なのでとことん、自分は特別に見てあげるべきだ。

 

どれだけ劣等な存在に感じても

 

 

そいつだけが、唯一の自分なのだ。

 

 

どういう理由かも知らないが、仕組まれてそういうことになって、主役が自分の世界、宇宙がただ1つ広がっているのだ。

 

 

これを面白く過ごそう!

と思わず

 

見聞きしたその偶然のコミュニティにおける常識に縛られて

 

その中で無難に生きようとすることなど

 

 

まさにその自分という特別性を無視して

死んだふりをして生きるようなものだと思う。

 

 

 

自分にとって自分が愛すべきもので

すごい大切な存在で

自尊心はなるべく高く生きた方が

 

 

幸福度が誰にとっても増すと思っているので

 

俺は、こういうことを全ての人が思うべきだと思っている。

 

 

どこかの王子に生まれなくても

歴史的な天才に生まれなくても

 

 

ただ、自分が自分として君臨した世界がここにあるというだけで

その自分の役目を担って生きている自分は

 

間違いなく特別な存在なのだ。

 

 

 

 

そんなこといっても

他の人達も全員そうじゃないか

 

 

そう思う人は思うかもしれないが

 

そんなことは、他人のこと。

自分にとっては、わからないことだ。

 

 

なぜなら自分は一度も、彼らが主役の人生を歩んだことはない。

 

 

自分が知っている唯一の世界が

 

この、この自分が主人公であるこの世界なのだ。

 

 

だから、これくらい特別に自分をきっちりと認識した上で

 

その自分をガッツリと愛してやって

 

 

 

それで、この主役として生まれた自分の人生を

どう面白く過ごしてやろうか

 

それを、そういう観点から考えて生きることには、とても意味がある。

 

 

過去に何があろうが

自分が誰であろうが

 

自分が自分であるというだけで、特別な世界だ。

 

 

今日、ニュースでやっている世界のことも

この国のことも

 

すべて、自分が主役として頂いた自分にとっての唯一の世界の設定だ。

 

 

これをいかに、この与えてもらった主役で楽しむか、ということこそが人生の価値。

 

 

なんとなく生まれた世界のわき役として

無難に生きようというのも、自分が選択するならかまわない

 

 

 

ただし、一度はキッチリと、唯一、自分だけが主役として用意されているこの世界を

 

そのように認識して

 

とことん楽しんでやろう、と、仮にでも考えてみることも

とても大切な思考実験だと思う。

 

 

 

 

ちなみに俺は、かなり若い時からこういった主役思考で生きている分、

いろいろな特別な境遇に

 

自分の身の丈が合わないと感じても

「主人公なんだし」という言い訳でもって

 

突き進んでこれた。

 

 

 

現状の外の

今の自分では居心地の悪い、恥をかく世界へ足を踏み込めば踏み込むほど

 

急速に経験値は付く。

 

 

これをてっとりばやく繰り返すためには

何か、とても高い自尊心、高いセルフイメージが必要で

 

 

この世界、自分が主役なんだし!というのを認識することは

このためのとても手っとリばやい、一つの方法だと、俺は思う。

 

 

 

だからこそ自分勝手に他の誰をも傷つけて踏み台にすべき

とか、そういう発想とは関係がない。

 

 

他人は(自分が主人公である世界の)脇役。自分は主人公。

 

自分が主人公だと本当に認識し

自己愛を最大にし、生きるとき

 

 

はじめて本当に、同じように主役を担う他人一人一人のことも

 

彼らのそれぞれの世界では脇役である自分が、

それぞれの世界で主人公である彼らを同じように大切にできるのだ、と信じている。

 

 

 

 






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